日本近代化の舞台「呉」
新原芳明
広島県呉市の市長を務めている新原です。幕末の1853(嘉永6)年、大砲を搭載した黒船が来航し、我が国は産業革命を経た欧米列強との技術力、産業力の差を痛感します。しかしその後、我が国は驚くべきスピードで近代化を進めます。呉市は、大砲などの武器やそれを載せる軍艦、更には航空機、そしてそのエンジンなどを製造し、我が国の近代化の主要な舞台となりました。呉市は、日本はもとより世界でも他に例のない特別な都市です。
呉市のあゆみ
嘉納師範によって講道館柔道が創始された1882(明治15)年、呉は「くれまち」と呼ばれ、海運業や漁業などを営む住民の暮らす、小さいながらも市(いち)や興業も許されたまちでした。私の先祖もここに住んでおり、海軍が来た時、祖父の時代に親戚や同業者などと呉市内の別の場所に移りました。1889(明治22)年には、呉に鎮守府が開庁します。他の鎮守府であった、横須賀、佐世保、舞鶴は、いずれも外洋に開かれた場所にあります。しかし呉は、日本の中で海沿いでは外洋から一番遠いところ、瀬戸内海のほぼ真ん中にあります。これは、海外列強の艦隊から一番攻められ難い場所だからです。呉は他の鎮守府とは全く異なる役割を期待されていました。海軍は最初からここに産業近代化の先頭となる、海軍最大の兵器工場と造船所を置くことを考えていました。そして呉鎮守府開庁後、他の場所にあった造船所や、新しい施設を呉に移転、整備していきます。また、幕末に幕府が建設を始めた横須賀造船所などから、海外の指導を受けていた技術者を呉へ移し、日清戦争や日露戦争の海戦で損害を受けた軍艦の修理を行いました。
1899(明治32)年には、呉で製造した最初の軍艦である通報艦の「宮古」が竣工します。その後も海軍は、国産化のための綿密な計画のもと、イギリスなどから戦艦「金剛」などの当時の世界一の兵器や軍艦を輸入し、建造中に技術者を現地へ派遣して技術移転を行いました。輸入した兵器や軍艦を修理することで急速に技術が向上しました。特に大砲、機関砲などの兵器の生産では、呉は国内で圧倒的な地位を占め、世界でもドイツのクルップと並んで、ほぼ最新鋭、最大級の兵器工場となりました。1915(大正4)年には、日本独自の設計による初の超弩級戦艦である「扶桑」が呉海軍工廠で竣工し、日本の技術は欧米列強に追いつきました。超弩級とは、それまでの戦艦の概念を一変させた革新的なイギリス海軍の戦艦「ドレッドノート」を超えるという意味です。ただ、我が国最初の超弩級の軍艦は、1913(大正2)年にイギリスのヴィッカース社で竣工し、輸入した「金剛」です。
そして、1920(大正9)年には、41センチ砲を備えた、当時世界最速で最大の戦艦「長門」が竣工し、ついに英米の軍艦を追い越すことになります。「長門」は連合艦隊の旗艦を長く務めたので、海外でも有名です。同型艦の「陸奥」とともに、英の2艦、米の3艦と合わせ世界のビッグセブンと呼ばれました。1941(昭和16)年には、呉海軍工廠で史上最強の46センチ砲を備えた戦艦「大和」が竣工しました。改めて振り返ってみると、「長門」竣工まで、黒船来航から67年、明治改元から52年、呉鎮守府開庁から僅か31年、世界が驚く急速な近代化です。そして「長門」の竣工から21年で戦艦「大和」が造られました。
呉工廠では生産技術だけでなく、それを支える原価計算、工程管理、休暇制度なども洗練されました。また海軍の航空機の開発製造も行い、呉には小さいながらも飛行場が設置され試験飛行も行われました。そして終戦後には、呉の工廠の技術や経営のノウハウは、我が国のあらゆる分野の産業や社会に波及し、平和で豊かな我が国の発展のもととなりました。
呉市と柔道
呉鎮守府や工廠では、文化活動やスポーツ活動も盛んに行われました。そして呉市には、本稿執筆のきっかけともなった、呉市と嘉納師範とのつながりを象徴する「呉弘道館」が現存しています。呉弘道館誕生のきっかけは、1918(大正7)年に講道館から呉鎮守府柔道教師として派遣された緒方久人氏です。1919(大正8)年、同氏は上京して嘉納師範の許可を得て、道場は、公認・「日本傳講道館柔道修業所 呉弘道館」と命名されました。このことは、現在の呉弘道館館長である高畠光治呉地区柔道連盟副会長から教えていただきました。
今回の巻頭言執筆に当たり、嘉納師範の業績を私なりに改めて勉強し、大変に驚きました。嘉納師範が創始された柔道は、様々な武道の近代化、そして日本での体育や近代スポーツの普及を促し、体育・スポーツの分野で、我が国の存在を世界に知らしめた方であることに感銘を受けました。それは呉市が当時最先端の産業技術を体現した兵器や軍艦の製造を通して我が国近代化の主要な舞台となり、世界各国に日本の存在を知らしめた歩みとオーバーラップします。
嘉納師範は、黒船来航から7年後の1860(万延元)年にお生まれになり、まだ20歳になったばかりの若い時期に「崩し」の理論などを発見し、1882(明治15)年に、講道館柔道を創始し、講道館を設立されました。師範は1891(明治24)年に第五高等中学校校長、1893(明治26)年から23年余に亘り東京高等師範学校校長を務めるなど、講道館長の傍ら学校長として日本の教育に尽力されました。多忙な中、師範は1909(明治42)年に国際オリンピック委員会委員に就任すると、オリンピックに日本選手を派遣し、体育の普及振興を図るため、1911(明治44)年には大日本体育協会(現日本スポーツ協会)を設立して会長となり、翌年はストックホルムオリンピックの日本選手団団長となります。世界で戦争が続く中、スポーツを通じた国際交流に日本を参加させたことは偉業です。
さらに師範はアジア初のオリンピック開催に向けて東京招致活動を行い、1936(昭和11)年のベルリンIOC総会で、1940(昭和15)年の東京オリンピック招致に成功します。しかし、大変残念なことに、1938(昭和13)年、カイロでのIOC総会後、アメリカ経由で帰国中、氷川丸船内で亡くなりました。東京招致は実現しませんでしたが、国際間で戦争が絶えない状況で、スポーツを通じた国際交流で相互理解と平和な世界の実現を命がけで目指された姿勢は、講道館柔道資料館の資料などから窺い知ることができます。
呉市においても、大和ミュージアムを設け、呉の工廠を舞台とした、日本産業近代化について、研究展示しています。大和ミュージアムは、リニューアルのため、来年(2025)2月から約1年休館しますが、休館中も臨時の仮展示室を開設するなど工夫を凝らし、呉が日本近代化に果した役割について一層焦点を当てることとしています。
是非、師範と同時期に日本近代化を体現した特別なまち「呉」をお訪ね下さい。
(呉市長)








