柔(やさ)しく剛(つよ)く-自他共栄のウェルビーイング
長沼 毅
2011(平成23)年、国際柔道連盟(IJF)が「世界柔道の日」 World Judo Dayを制定した。10月28日、嘉納治五郎師範の誕生日である。今年のテーマは「平和」だが、昨年は「ウェルビーイング」だった。自分だけでなく周囲と地球の「良い状態」がウェルビーイングの心である。現行のSDGs(持続可能な開発目標)が2030(令和12)年で終わったら、その次はD(開発)がW(ウェルビーイング)に代わってSWGsになるという噂がある。柔道界はそれを先取りしたことになるし、私が奉職している大学の学園訓も110年前に先取りしていた。その学園訓は「柔しく剛く」で、柔道の「柔能く剛を制す」と通じるような通じないような、でも、その本質は「自分とみんなのウェルビーイング」すなわち「自他共栄」なので、おそらく通じているのだろう。
2020東京オリンピック閉会式のコンセプトは「Worlds we share」、巷間では「多様性と包括性」diversity & inclusionを意識したとされているが、私には宮澤賢治の全世界的ウェルビーイングを想起させた。それは「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」、来年が起稿100周年になる『農民芸術概論綱要』序論で叫ばれたメッセージである。この閉会式のもう一つのコンセプト「Moving Forward」と併せて「世界のウェルビーイングへ向けて全速前進!」と意気込みたいところだ。
世界は柔道人口が増えているのに国内は減少傾向である。私の出身高校の柔道部も部員減少により廃部の憂き目にあった。意気ある生徒や教員、卒業生たちの尽力で復活したが(本誌令和7年7月号94~96頁)、まだ細々である。それでも折に触れての新旧交流会には多くの卒業生が集まってくる。これを眺めるに、高校柔道はむしろ卒業後の生涯柔道、すなわち生涯ウェルビーイングの入口だったのではないかと思えてきた。いや、部活だけでなく、柔道教室や町道場もそうなのではないか。いわゆる「部活動の地域移行」と併せて、地域の大人たちの生涯ウェルビーイングの入口としても柔道教室や町道場の存在感が増してくるのではないだろうか。
私が柔道を始めたのは小5で、神奈川県大和市の「菅原道場」に入門し、菅原壽男先生に師事した。福岡教育大学の楢崎教子教授(1996アトランタオリンピック銅、2000シドニーオリンピック銀)の御父上である。中学・高校では部活の後に道場通いの日々だった。菅原先生からは乱取とともに講道館護身術や五の形、古式の形など様々な「形」を教わった。また、「心技体」「戦わずして勝つ」「逃げ足ははやく(早いタイミングと速いスピード)」「鍛錬の鍛は千回、錬は万回」などの“菅原語録”は今の私のウェルビーイングの基礎になっている。
私は筑波大学に進学したが(悠仁親王殿下と同じ生物学類)、柔道部は本格的すぎたので相撲同好会でお茶を濁し、たまに柔道部の知人に“遊んでもらう”程度だった。でも、そのお陰で「相撲は押し技、柔道は引き技」という本質を感得できた気になったし、後に広島でお世話になる出口達也氏(現・広島大学教授)の知己も得ることができた。一流選手だった出口氏の背負投や巴投は芸術的で、私が組ませていただいた時の「投込稽古のような乱取」の記憶は今でも鮮明だ。
筑波大学で理学博士を取得してからは、潜水船「しんかい2000」「しんかい6500」で世界中の海に潜り、広島大学に移ってからも南極や北極、火山・高山、砂漠など、地球上の様々な極限環境で調査をして「科学界のインディジョーンズ」と呼ばれた。一方、広島大学で唯一の知人・出口氏の伝手を頼って地元(東広島市)の柔道教室「西条柔心館」のお世話になった。西条柔心館は1979(昭和54)年に故・米村恒夫先生が創設した東広島柔道教室を前身として1986(昭和61)年に現在の名称になり、栁河元木・二代館長を経て、池田徹・現館長の下、4年後の50周年を期して精力的に活動している。この柔道教室から後に日本代表となる西山大希・雄希兄弟が育ってくれたことは誇らしい。
私は西条柔心館に30年余りお世話になり、今年3月に広島大学を定年退職した。この間、たくさんの子どもたちと交わり、教え子のお子さんにも教えるという“おじいちゃん的な幸せ”も味わえた。退職後は広島市内の安田女子大学に奉職し、その直近に引っ越した。引っ越し先は、まったくの偶然だが、あの川口孝夫先生(1972ミュンヘンオリンピック金)の川口道場の直近だった。川口道場では一生徒として、子どもたちとドタンバタンできる幸せ、すなわち自分の生涯ウェルビーイングを堪能させていただいている。。もちろん自分だけではない、安田の学園訓「柔しく剛く」を念頭に置いて。
私の解釈では、柔しくは「思い遣り」、剛くは「自分を信じて自分らしく」である。換言すれば「自分とみんなのウェルビーイング」、自他共栄。この自他の「他」の部分にどれだけ多くの人のウェルビーイングを入れられるか。それが今の私の課題だし、柔道界に希望をもたらす方向性の一つでもあると思う。
(広島大学名誉教授・安田女子大学教授)








