今月のことば 2025年12月

「一本」に注目

大保木 輝雄

 嘉納治五郎師範(1860-1938、以下師範)は、道場における修行者に対し「自然体の姿勢を守り全身にはもちろん、手足などの局部にも力を入れずきわめて凝らず固まらず、自由自在に動作の出来るように、身体を扱い得るように練習しなければならぬ」(『柔道』第7巻第6号)と述べています。ここに示された「自然体」は基礎基本として位置づけられ、その姿勢を崩すことなく、相手の動きに対して自由自在に動作が出来、相手の動きを封ずることができる身体(自然本体)へと変容させろ、というのです。「自然体」から「自然本体」への成長は、競技の勝敗を示す「一本」を通じて促されていることは周知のことです。スポーツの世界を熟知していた師範が、スポーツが採用していた「一点」ではなく「一本」という単位で示したのはなぜなのでしょうか。「自然体」という言葉は師範の造語です。しかし「一本」という言葉はそうではありません。日本国語大辞典に、勝小吉の『夢酔独言』を事例として挙げています。

 師範の実学的・開明的な視点は、父・治郎作(1813-1885)の縁で出会った勝海舟(1823-1899)との幼少の頃からの深い交流によって培われたものだと言われています。その海舟の父が勝小吉(1802-1850)。小吉は直心影流の使い手であり、幕末の剣聖とも言われる男谷信友(1798-1864)の従弟でした。その小吉の自伝が天保十四(1843)年の『夢酔独言』です。そこに「一本」という言葉が記述されているのです。勝敗の決着などを示す「一本」は、武士のみならず町人にも広く普及していた「撃剣」(防具を着用し竹刀で競い合う剣術)用語として普及していたようで、その元祖は直心影流という流儀でした。

 では、その記述箇所をすべて拾ってみることにします。

 小吉「17歳・剣術修業」の項目では、「翌年正月、番場へ遊びにいったら、新太郎が忠次郎と庭で、剣術を遣っていたが、おれにも遣へといふゆえ、忠次と遣たが、ひどく出合頭に胴をきられた。其時は気が遠くなった。夫より弐、三度遣たが、一本もぶつことができぬからくやしかった」とあります。その後多く剣術での遣り合いのことを書き綴っていますが、19歳の頃の記述には、「或日、少し気ぶんがいいから、寒稽古に出たら、小林も来ていて、勝様、一本願ひたい、とぬかすから、見る通り、久しく不快でいまに月代もすらず居る位だが、せっ角の事だから、一ぽん遣ひましょう、といって遣ったが、先弐本つづけて勝ったら、小林が組付いたから、腰車に掛てなげてやるとあおのけにたおれたから、腹を足にておさえて、のどをついてやった。其時、小林が起上り、面を取っておれにいいおるには・・・」とあります。最後に見られる記述はその数年後にみられます。「剣術の仲間では、諸先生をぬけて、いつもおれが皆の上座をしたが、藤川近義先生の年廻には、出席が五百八十余人あったが、其時はおれが一本勝負源平の行司をした。・・・男谷の稽古場開きにも、おれが取締行司だ」とあります。撃剣試合での言わば審判長のような役割を担っていたというのです。ここに表記される「一本」は技が決まることであり、また勝負事態を「一本」と観ているようです。

 以上の様な記述からは、鎧兜の代わりに防具で身を固め、竹刀を刀に見立てた実戦の在り様が、戦闘から競技へと新たな文化へと衣替えをしていることが察せられます。命懸けの勝負の在り方が撃剣による競技文化として開花する様子を見る思いがします。そこで生まれたのが、「一撃必勝」を本分とする「一本」という勝負の基準だったのです。『夢酔独言』は、幕末の江戸での荒々しい喧嘩や撃剣の状況を手に取る様に綴っているので、映画を見るように読み進めます。

 海舟も、男谷の弟子である島田虎之助(1810-1864)から免許皆伝をうけた剣術家でもありました。当然のことながら、海舟が剣術を語る時「一本」という言葉を使ったことでしょう。当時は、勝負の決着を示す言葉として「一本」が当たり前に使われていたのではないでしょうか。嘉納師範は少年の頃から、その海舟から直心影流独特の特異な身体技法である、立ち方、歩き方、呼吸の仕方などの話を聞き、「気剣体一致」の打突である「一本」の話を耳にしていたかもしれません。もしかすると、嘉納師範の発想の原点には、直心影流の背景にある思想の影響があるのではないか、と思うようになりました。

 技が見事に決まる「一本」の瞬間は、体全体が軽快で何の澱みもない筆舌に尽くしがたい爽快感が全身を覆います。逆に見事に取られても、その「一本」はスカッと身に沁み、恨みの感情が湧き出ることもありません。また、見ている第三者が感動を覚えるのも、まさにそのような「一本」が決まったときです。武道をよりよく楽しむ秘訣は、身も心もスカッとする「一本」を積み重ね、その意味と価値を言葉に表わすことにあるのかもしれません。

(日本武道学会会長)

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